素晴らしき中野区ーオレ達の祭ー(上)
愛する中野区に捧げる(捧げて欲しくないだろうけど)
僕は小学校4年くらいまで、中野区の上高田に住んでいた。
そのあと東中野に引っ越したが、小学校は転校せず、そのまま越境通学したので、子供の頃の思い出は、ほとんど中野区上高田の思い出だ。
地図を見てくれるとわかるのだが、上高田は寺町である。
お寺の数が異常に多い。
とりわけ僕の住んでいたあたりは、お寺のなかに住居があるといえば聞こえがいいけど、要するに墓場に囲まれた形で住宅街があるのだった。
今から思うと土地、安かったんだろうなあ・・・・
借家だったからあまり関係ないけど。
僕等の世代は、東京でガキ大将というものが普通にいた、最後の世代だと思うのだが、この頃の子供達の遊びは、大抵外遊びだ。
家のなかでやる遊びといえば、人生ゲームか、ツイスター、それに野球版くらい。
普通は外で、警官泥棒や、缶蹴り、野球、はさみっこなんかをやるのである。女の子の間ではゴム弾(てかくのかな?)がはやったりしていた。
外遊びが中心ということは、当然、墓場も遊び場になるということで。
僕等の遊び場は松□寺、宗○寺、竜△寺。
保善寺にはめったにはいらなかった。
ほぼ全員が保善寺幼稚園の卒業生で、何かあったとき、一発で面が割れるという危険があったからである。
これらのお寺に早稲田通りの正門からはいっていくのはかなり勇気がいる。
はいっていっても(でていっても)何かいわれた記憶はないのだが、やはり立派な門を堂々と通って墓場に遊びに行くというのは気が引ける。
従い僕等は、もっぱらお墓側からはいった。
早稲田通り沿いにはお寺の境内があるのだが、その裏は一面の墓場である。
墓場にそって道があり(ここを夜に歩くのは流石に勇気がいった)今はお墓も一杯で完全に閉ざされてしまったろうけど、僕等が遊んでいたころは、3mあるかないかの石垣があるだけだった。
当然、その頃の子供にとって、こんな石垣をのぼっていくのはなんでもないことだった。
毎日、仮面ライダーごっこや忍者部隊月光ごっこで、鍛えているのである。
たとえその石垣が墓石を積み上げたものであっても、平気で足で踏みつけてお墓に侵入した。
何故かというと、墓場には当時まだお墓の立っていないスペースがあり、そこでは夏草がしげったりして、ショウリョウバッタがとれたし、人間をささない黄色い蜂(僕等はキバチとよんでた)がよってくる木もあった。
夏場はカナブンとりのために、お寺の木をかたっぱしから蹴ってまわることはかかせない。
セミとりにもお寺の木々ははずせないし。
今から考えると昆虫を捕まえるために欠かせない場所だったのだが、子供が捕まえた昆虫は、たいてい一週間以内、早ければ翌日に死ぬ運命にあったので、なんか墓場で殺生しまくりって気もする。
もちろん昆虫取りだけやっていたわけではない。
松□寺、宗○寺の墓地を利用しての、子供的にはおそろしく広いフィールドでの鬼ごっこや、かくれんぼは、夏の夕暮れにはかかせなかった。
なんといっても墓場で鬼ごっこ&かくれんぼである。
スリル満点なことこの上ない。
とりわけかくれんぼでだんだん暗くなってくると、隠れて見つからないでいる方も、みつけられない鬼の方も、顔がひきつってくる。幼稚園から小学校低学年の間は、これで大抵何回か薄暗い墓地の真ん中で泣くことになる。
「根性をつけるため」という、とってもありがたいお兄様、お姉様方のご配慮により、隠れている方は、早稲田通りの正門を通って家に帰ってしまうからだ。
泣く方も怖いが、墓地の真ん中で一人で泣いてる子供を見つける方も相当怖かったと思うぞ。
一度、何故か墓地でサッカーをやったことがある。
もちろんそこまで激しく罰あたりなことを、小学生はやらない。
夏休みになり、ヒマをもてあました高校生くらいのお兄様方に「いくぞ」と言われ、何もわからないまま墓地にはいり、「サッカーやろうぜ」といわれるのである。
墓場でサッカーといっても、ゴールがあるわけではなく、まあ、ひたすらドリブルの練習をするみたいになるのだが、みなそういうことにも飽きてくる。
すると墓をこえてのパスなんかもはじまり、あげくの果てには古い卒塔婆がサッカーボールでバシバシ折られていくのである。
墓場でサッカーやること自体、昆虫取りとは全然違う罰当たりな行為であるという自覚はあったので、卒塔婆を折った時には流石にやばいと思った。
お墓にはいった人たちも、鬼ごっこやかくれんぼくらいは多めに見てくれそうだけど、サッカーはいかがなものか・・・・・
お坊さんに見つかったらやばいというよりも、祟られそうで墓地サッカーは一回で中止になった。
こんなことばかりやってた訳だが、当時の中野区上高田では、怒られた記憶がない。
僕等はお墓だけではなく、人様の庭にも、よく言えば野良猫のごとく。悪くいえば泥棒のごとく自由に出入りしていた。
もちろん他人の家の庭で遊ぶようなことはしないが、通り抜けるのは自由で、子供達は家と家との細い隙間なんかを自由に行き来していた。
逆にいうと、そういう土地柄だったから警官泥棒や、缶蹴りがメジャーな遊びだったのかも。
そんなのどかな昭和の中野区上高田では、地域活動も活発だった。
とりわけ早稲田通りの向かいにある龍▽寺の豆まきは命がけとなる。
お菓子の類がまかれるだけでなく、マッチ箱がまかれるのである。
もちろんそのマッチ箱のなかには、商品名が書いた紙がはいっている。
確かお金だったこともあったような(^_^)?
このマッチ箱の争奪戦は凄い。
凄いとわかっているのにというべきか、凄いからなのか、毎年赤ちゃんをおんぶ紐でさげて参加してる女性がかならず一人はいる。
そして、彼女の頭をこえ、毎年必ず赤ちゃんと女性の隙間にマッチ箱が入る。
まく方は、できれば赤ちゃん背負ってきてくれたお母さんにあげたいと思ってなげるのだが、そんなもん背負ってマッチ箱がとれるほど甘くはない。穏和な上高田の人たちも、この日ばかりは目が血走っている。
赤ちゃんがすやすや眠るねんねこにマッチ箱がはいったとたん、無数の手が、ねんねこの中をかきまわし、赤ちゃんは大泣きし、おかあさんは「勘弁!!勘弁!!」とか「あんた達なにすんの!!」とか絶叫するのだが結局マッチ箱は誰かにとられてしまうのだ。
いたいけな子供の僕がゲットしようものなら、付近の大人が、突然強盗に早変わりするんじゃないかっていうくらい殺伐としているのである。
従い、子供達の戦略は、代々の言い伝えで「ゲット&ラン」である。
マッチ箱をゲットしたら、速攻で逃げる。
手に持ってほかのものを取ろうとすれば、その隙に手をはたかれてマッチ箱は落ち、大人にとられてしまうのだ。
こうして、中野区上高田の子供達は、墓場の石垣や近所の塀を、幼稚園にはいったかはいらないかの時期から上り下りして忍びの技術を学び、墓地サッカーや、墓地かくれんぼで鬼神も恐れぬ胆力を養い、カナブン取りのために夏の間、墓地中の木を蹴りまくることですさまじい蹴り技を身につけ、豆まきで欲に支配された大人の恐ろしさと、それにどう対処するかを学ぶ。
そして10歳になるころには、いつでも、かの陸軍中野学校に入れるような、はしっこい子供に育つのである。(ウソです)
そんな少年期の終わりに・・・・
あの子供御輿事件は起こったのだった。
Uploads on coming monday!!
see you (^_-)
